境内を巡る
PRECINCT GUIDE
仲見世。さまざまな飾りつけで参拝者を迎えている。
仲見世なかみせ
いつも賑やかな表参道
仲見世は浅草寺の表参道である。雷門から宝蔵門まで長さ約250mにわたって、参道の両側に朱塗りの店舗が並ぶ。日本で最も古い商店街のひとつであり、いつも活気に溢れている。仲見世という名は、浅草広小路(現在の雷門通り)あたりに並ぶ店と浅草寺観音堂前に並ぶ店との中間、つまり「中店」ということからこの名で呼ばれるようになったともいう。
もともと雷門をくぐったあたりは浅草寺「南谷」といい、参道の両側に支院のいくつかが並んでいた。浅草寺ご本尊・観音さまへの崇敬はもとより、これら支院に祀られていた天照大神宮、秋葉権現、出世大黒天、鹿島明神などの神仏も多くの参拝者を集めていた。
参拝者の増加にともない、浅草寺は付近の住民に境内の清掃を賦役として課すかわりに、南谷の支院の軒先に床店(小屋掛けの店)を出す許可を与えた。貞享2年(1685)頃のことで、これが仲見世の発祥といわれている。
以降、南谷だけでなく、境内には多くの店舗が並ぶようになってゆく。伝法院から宝蔵門寄りの店は役店と呼ばれ、水茶屋が並んでいたのに対し、仲見世は平店と呼ばれる、玩具、菓子、土産品などを売る店舗が主だった。
宝蔵門寄りの店は20軒の水茶屋があったことから俗に「二十軒茶屋」といい、美人の看板娘を置いて人気を集めた。看板娘に惚れ込んで朝から晩まで茶を飲み続ける者もおり、川柳に「おおたわけ 茶店で腹を 悪くする」と詠まれた。
大正年間の「東京名所浅草観音之風景」に描かれた仲見世。
関東大震災後、復興した仲見世。現在の雷門通りから仲見世、本堂を望む。
ところで江戸の町は関東ローム層上にあるため、雨が降ると地面がぬかるみ庶民は難儀した。浅草寺の参道も同様であったが、文化14年(1817)に、地元の「浅草寺観世音信心連中」という講が、雷門から本堂までの道づくりと敷石の奉納を行なった。こうして仲見世は雨天でも快適な商店街となった。
明治になり、浅草寺の土地が政府に没収されるとともに、仲見世も東京府の管轄に置かれた。そして明治18年(1885)に煉瓦造りの洋風の建物に一新される。文明開化の香りに満ちたこの仲見世は、大正12年(1923)の関東大震災で壊滅したが、同14年に鉄筋コンクリート造り、朱塗りの商店街に生まれ変わる。そして、昭和20年(1945)の東京大空襲で外構えを残して焼け落ちたが、戦後に補修して現在の姿となる。
平成6年(1994)には電柱を撤去して地中電線に切り替えてすっきりとした通りになり、電飾看板や季節に即した飾りつけなど、整然としたなかに華やかさと粋を感じる仲見世は、歴史を大切にしながら日々、成長している町並みといえるだろう。