境内を巡る
PRECINCT GUIDE
奥山で人気を博した軽業師の錦絵。右は早竹虎吉、左は桜綱駒司・幸吉
新奥山しんおくやま
江戸きっての庶民娯楽の場
諸碑が立ち並ぶ新奥山。
江戸時代、浅草寺本堂の北西一帯は「奥山」と呼ばれた。地名というよりも本堂の裏手をおおまかに指した俗称で、その範囲も明確ではなかった。その名の由来も定かではないが、浅草寺の山号である「金龍山」の「奥」にちなむと推定される。奥山は江戸きっての庶民娯楽の場であった。参拝者が休息する水茶屋が並び、芝居、見世物、独楽回し、猿芝居、居合、軽業、手妻(奇術)などの大道芸人が人びとを楽しませた。また、水茶屋や楊枝屋の看板娘はいわば当時のアイドルで、鈴木春信や喜多川歌麿などの美人画の題材となって評判となった。
明治になり、寺地が浅草公園に入れられ、浅草の盛り場が「六区」に移るにともない、奥山の名は消えていった。現在、本堂西側の一画が新たに「新奥山」として整備され、さまざまな碑、像が立つ。浅草寺近くに住んでいた元禄時代の歌人・戸田茂睡の墓、明治時代、社会事業に尽くした瓜生岩子女史の銅像のほか、「喜劇王」として活躍した曽我廼家五九郎の顕彰碑、喜劇人の碑、映画弁士塚など、浅草の娯楽を支えた人びとを記念する諸碑が並ぶ。